苫小牧はじめて物語
原 小牧
(はら こまき)
2018年3月31日公開
原 小牧
『創基65周年高校開校30周年記念誌』P5
明治22年11月2日 |
苫小牧村に生まれる |
---|---|
明治38年 |
苫小牧尋常高等小学校 卒業後 |
明治40年 |
札幌区立女子職業学校 入学 |
明治44年 |
札幌区立女子職業学校 卒業 |
大正8年 |
町立苫小牧女子実業補習学校 訓導 |
大正13年4月7日 |
私塾 苫小牧婦人技芸教授所を開設 |
昭和3年6月27日 |
苫小牧女子技芸学校を開校 初代校長 |
昭和18年1月6日 |
逝去(55歳) |
生い立ち
原小牧は、苫小牧外十五ヵ村戸長役場の初代戸長を務めた父直次郎と、母こふの六女として勇払郡苫小牧村に生まれた。苫小牧の地名から苫を取って「小牧(こまき)」と名付けられる。祖父の原早太は白虎隊寄合一番隊長であり、後の小牧の教育に対する献身的な精神は、祖父早太から受け継いだ白虎隊精神に通じるものがあるといわれている。
小牧は、明治38年に苫小牧尋常高等小学校全科を卒業後、私立札幌女子職業学校を経て、明治40年に札幌区立女子職業学校に入学した。当時、苫小牧から札幌に出て教育を受けることは珍しいことだった。
原小牧は、苫小牧外十五ヵ村戸長役場の初代戸長を務めた父直次郎と、母こふの六女として勇払郡苫小牧村に生まれた。苫小牧の地名から苫を取って「小牧(こまき)」と名付けられる。祖父の原早太は白虎隊寄合一番隊長であり、後の小牧の教育に対する献身的な精神は、祖父早太から受け継いだ白虎隊精神に通じるものがあるといわれている。
小牧は、明治38年に苫小牧尋常高等小学校全科を卒業後、私立札幌女子職業学校を経て、明治40年に札幌区立女子職業学校に入学した。当時、苫小牧から札幌に出て教育を受けることは珍しいことだった。
苫小牧婦人技芸教授所の設立
苫小牧における女子教育の歴史は大正8年に始まる。裁縫を中心とする実業教育を行う町立苫小牧女子実業補習学校が、苫小牧尋常高等小学校に付設された。小牧は、苫小牧尋常高等小学校の准訓導と、町立苫小牧女子実業補習学校の訓導を兼ねて務めることとなる。その後、一般教養を主体とする女学校の設置運動が盛んとなり、町立苫小牧女子実業補習学校は「町立苫小牧実科高等女学校」に変わり、大正13年には「町立苫小牧高等女学校」と改称された。
この新しい女学校の設置により、小牧は女子に対する裁縫を中心とする実業教育の必要性を痛感したため、自ら公立学校の訓導を辞し、私費を投じて大正13年4月7日、当時の大町48番地(現在の苫小牧市教育・福祉センター向い)に「苫小牧婦人技芸教授所」を私塾として開設した。自宅の二部屋を通した板の間に座布団を敷き裁板を並べて、20余名の生徒に和裁を中心とした授業を行った。この小さな私塾は、家庭的な雰囲気の中で熱心な個別指導が行われたため、多くの父母の信頼を得ていた。
苫小牧における女子教育の歴史は大正8年に始まる。裁縫を中心とする実業教育を行う町立苫小牧女子実業補習学校が、苫小牧尋常高等小学校に付設された。小牧は、苫小牧尋常高等小学校の准訓導と、町立苫小牧女子実業補習学校の訓導を兼ねて務めることとなる。その後、一般教養を主体とする女学校の設置運動が盛んとなり、町立苫小牧女子実業補習学校は「町立苫小牧実科高等女学校」に変わり、大正13年には「町立苫小牧高等女学校」と改称された。
この新しい女学校の設置により、小牧は女子に対する裁縫を中心とする実業教育の必要性を痛感したため、自ら公立学校の訓導を辞し、私費を投じて大正13年4月7日、当時の大町48番地(現在の苫小牧市教育・福祉センター向い)に「苫小牧婦人技芸教授所」を私塾として開設した。自宅の二部屋を通した板の間に座布団を敷き裁板を並べて、20余名の生徒に和裁を中心とした授業を行った。この小さな私塾は、家庭的な雰囲気の中で熱心な個別指導が行われたため、多くの父母の信頼を得ていた。
苫小牧女子技芸学校の開校
苫小牧婦人技芸教授所は、学校への昇格を望む声が強く、小牧の尽力により、昭和3年6月27日「苫小牧女子技芸学校」として北海道庁長官の認可を得る。この創立から、小牧の女子教育への信念の固さ、情熱がうかがえる。
教授科目は和裁・手芸などが中心であったが、昭和5年頃からは洋裁・料理・修身・作法・音楽・体操なども加えられた。特に裁縫技能は厳格で徹底した指導でレベルも高く、信頼もよせられた。そのため胆振東部地方や日高地方からの入学者も集まり、校長宅を寄宿舎にしての学習が行われた。
また学校の認可とともに、それまで着物で通学していた生徒はセーラー服に変わり、当時としては女学校をもしのぐモダンな服装であった。昭和10年には王子製紙からの要望で、夜間にも裁縫教育を行うようになり、入学志願者が100名を超すほどで、昼夜指導にあたっていた小牧は多忙を極めた。
苫小牧婦人技芸教授所は、学校への昇格を望む声が強く、小牧の尽力により、昭和3年6月27日「苫小牧女子技芸学校」として北海道庁長官の認可を得る。この創立から、小牧の女子教育への信念の固さ、情熱がうかがえる。
教授科目は和裁・手芸などが中心であったが、昭和5年頃からは洋裁・料理・修身・作法・音楽・体操なども加えられた。特に裁縫技能は厳格で徹底した指導でレベルも高く、信頼もよせられた。そのため胆振東部地方や日高地方からの入学者も集まり、校長宅を寄宿舎にしての学習が行われた。
また学校の認可とともに、それまで着物で通学していた生徒はセーラー服に変わり、当時としては女学校をもしのぐモダンな服装であった。昭和10年には王子製紙からの要望で、夜間にも裁縫教育を行うようになり、入学志願者が100名を超すほどで、昼夜指導にあたっていた小牧は多忙を極めた。
小牧はその生涯を女子の実業教育振興に捧げた。真面目で几帳面な小牧は、常に綿密周到な計画を立て、事にあたっては全力を尽くした。提出された作品にきめ細かな点検指導を行い、生徒の裁縫技能は向上した。それに加え生徒それぞれの長所を認め、個性を伸ばす教育をしていた。
小牧は学校経営と家事の両立に献身的だったが、生来の虚弱体質と心臓病のため、薬石の効なく55歳で逝去した。
昭和18年1月6日の小牧の急逝は学校存続にも関わる大事件だった。訃報は直ちに全校生徒や町民に知らされ、教職員や生徒の動揺と悲しみは言語に絶するものであった。葬儀は厳粛に営まれ、多くの僧侶の涙ながらの読経は参列者の涙を誘い、小牧のその人柄が偲ばれた。学校代表の仲下キクエ(第1回卒業生・教員)の「嗚呼悲しきかな……」に始まる弔辞は一言読んでは嗚咽し、また読むも悲愴なもので、校内をはじめ外で見送る生徒や町民の誰もが号泣した悲しい別れだったという。
小牧はその生涯を女子の実業教育振興に捧げた。真面目で几帳面な小牧は、常に綿密周到な計画を立て、事にあたっては全力を尽くした。提出された作品にきめ細かな点検指導を行い、生徒の裁縫技能は向上した。それに加え生徒それぞれの長所を認め、個性を伸ばす教育をしていた。
小牧は学校経営と家事の両立に献身的だったが、生来の虚弱体質と心臓病のため、薬石の効なく55歳で逝去した。
昭和18年1月6日の小牧の急逝は学校存続にも関わる大事件だった。訃報は直ちに全校生徒や町民に知らされ、教職員や生徒の動揺と悲しみは言語に絶するものであった。葬儀は厳粛に営まれ、多くの僧侶の涙ながらの読経は参列者の涙を誘い、小牧のその人柄が偲ばれた。学校代表の仲下キクエ(第1回卒業生・教員)の「嗚呼悲しきかな……」に始まる弔辞は一言読んでは嗚咽し、また読むも悲愴なもので、校内をはじめ外で見送る生徒や町民の誰もが号泣した悲しい別れだったという。
小牧の急逝後、町立苫小牧東国民学校の田中正太郎校長(後の苫小牧市初代市長)が兼任で二代目校長に就任するも、昭和19年、戦時非常措置法の適用を受け閉校となった。
こうして小牧が開設した苫小牧女子技芸学校の歴史の幕は閉じられた。しかし戦後には娘の原芳子が小牧の遺志を継ぎ、現在の原学園へとその理念は受け継がれている。
小牧の急逝後、町立苫小牧東国民学校の田中正太郎校長(後の苫小牧市初代市長)が兼任で二代目校長に就任するも、昭和19年、戦時非常措置法の適用を受け閉校となった。
こうして小牧が開設した苫小牧女子技芸学校の歴史の幕は閉じられた。しかし戦後には娘の原芳子が小牧の遺志を継ぎ、現在の原学園へとその理念は受け継がれている。
<参考資料>
- 『山にむかって』神野 修/ほか編 原芳子 2009
- 『先人が語る苫小牧 第二号』苫小牧郷土文化研究会/編 苫小牧郷土文化研究会 2004
- 『創基75周年高等学校開校40周年記念誌』苫小牧中央高等学校 2001
- 『創基65周年・高校開校30周年記念誌』苫小牧中央高等学校 1993
- 『苫小牧中央高等学校開校30周年』苫小牧中央高等学校 1991
- 『苫小牧の教育史』堀江 敏夫/編 苫小牧市 1976