苫小牧はじめて物語

田中 正太郎

(たなか しょうたろう)

2016年9月30日公開 / 2016年10月1日更新

田中 正太郎

「苫小牧市史 上巻」(p967)
苫小牧市史編纂室蔵

明治18年11月23日

新冠生まれ

明治26年

苫小牧に移住

明治41年

北海道師範学校第一部卒業
(現在の北海道教育大学札幌校)

明治41年〜大正7年

苫小牧尋常高等小学校 訓導
(現在の苫小牧市立西小学校)

大正7年〜大正10年

苫小牧東尋常小学校 訓導兼校長
(現在の苫小牧市立東小学校)

大正10年〜昭和22年

苫小牧東尋常高等小学校 校長
(*昭和16年〜昭和22年までは苫小牧東国民学校)

昭和18年〜昭和19年

苫小牧女子技芸学校 校長
(後の苫小牧女子高等学校の前身)

昭和22年〜昭和23年

苫小牧町長

昭和23年〜昭和38年

苫小牧市長

昭和36年〜昭和40年

苫小牧女子高等学校 校長
(現在の苫小牧中央高等学校)

昭和38年〜昭和40年

苫小牧ガス株式会社 社長

昭和40年1月17日

逝去

昭和40年1月19日

市葬執行

● 主な表彰

  • 勲5等双光旭日章
  • 「田中正太郎先生像」建立(文化会館内)
  • 苫小牧名誉市民

東小と田中正太郎

北海道師範学校を卒業後、母校である苫小牧尋常高等小学校の訓導(教諭の旧称)を経て苫小牧東尋常小学校の初代校長に就任した。青年教師の頃は“ライオン”というニックネームをつけられ、生徒がこそこそ逃げたというほどに血気盛んな姿をあらわすエピソードがあり、自身も「泣く児童もだまる」とまで言われたと、伝記『大悟小節に拘らず』で語っている。また校長就任当初について“新米校長が新設校の経営だから苦心をした。従って教員をそろえること、学校を整えることが唯一の目標であった。それが大火で学級が増加し二部授業で、せっかく整いかけた訓練も、学力も全く画餅となって再出発というところだ。”と懐かしんだ。 こうして苦労して打ち出した田中校長の教育方針・学校経営方針は、その後の東小学校の方針として生きてきたと開校70周年記念誌の座談会でも語られている。 東小学校は後の市制施行式にその校舎が使われるなど、町長・市長になってからも縁のある場所で、東小屋内体育館で執り行われた告別式では卒業生をはじめとした多くの市民に見送られた。
北海道師範学校を卒業後、母校である苫小牧尋常高等小学校の訓導(教諭の旧称)を経て苫小牧東尋常小学校の初代校長に就任した。青年教師の頃は“ライオン”というニックネームをつけられ、生徒がこそこそ逃げたというほどに血気盛んな姿をあらわすエピソードがあり、自身も「泣く児童もだまる」とまで言われたと、伝記『大悟小節に拘らず』で語っている。また校長就任当初について“新米校長が新設校の経営だから苦心をした。従って教員をそろえること、学校を整えることが唯一の目標であった。それが大火で学級が増加し二部授業で、せっかく整いかけた訓練も、学力も全く画餅となって再出発というところだ。”と懐かしんだ。 こうして苦労して打ち出した田中校長の教育方針・学校経営方針は、その後の東小学校の方針として生きてきたと開校70周年記念誌の座談会でも語られている。 東小学校は後の市制施行式にその校舎が使われるなど、町長・市長になってからも縁のある場所で、東小屋内体育館で執り行われた告別式では卒業生をはじめとした多くの市民に見送られた。

初の公選町長~初代苫小牧市長

戦後、町村制の改正による初の公選町長選挙が告示されると、田中正太郎のほか町会議員の相武吉治郎と菊地善吾が推されて立候補した。昭和22年4月5日に行われた選挙で初の公選町長田中正太郎が誕生したが、得票数6676票と全体の60%を超える票を集めての当選だった。 その秋に市制施行の機運が高まると、臨時国勢調査の結果を経て、市制促進期成会の設立、苫小牧市制施行促進町民大会の開催及び宣言・決議を行うなど着々と準備を進め、昭和23年3月道議会で同年4月1日からの苫小牧市誕生が議決された。4月1日には苫小牧東小学校にて盛大な市制施行式や最後の町会が開かれ、4月10日には市役所前広場(旧市立病院前・現在の教育福祉センター前)にて多数の来賓を迎えての盛大な市制祝賀会が開催された。市中祝賀パレードの様子は写真に収められているが、その様子からも市制施行は戦後の食糧難・物資不足の苦しい時代に郷土の発展を願う明るい希望と勇気を与えるものであったことがうかがえる。 『市制施行申請書』に記された当時の人口は31,295人、戸数6,379戸。
戦後、町村制の改正による初の公選町長選挙が告示されると、田中正太郎のほか町会議員の相武吉治郎と菊地善吾が推されて立候補した。昭和22年4月5日に行われた選挙で初の公選町長田中正太郎が誕生したが、得票数6676票と全体の60%を超える票を集めての当選だった。 その秋に市制施行の機運が高まると、臨時国勢調査の結果を経て、市制促進期成会の設立、苫小牧市制施行促進町民大会の開催及び宣言・決議を行うなど着々と準備を進め、昭和23年3月道議会で同年4月1日からの苫小牧市誕生が議決された。4月1日には苫小牧東小学校にて盛大な市制施行式や最後の町会が開かれ、4月10日には市役所前広場(旧市立病院前・現在の教育福祉センター前)にて多数の来賓を迎えての盛大な市制祝賀会が開催された。市中祝賀パレードの様子は写真に収められているが、その様子からも市制施行は戦後の食糧難・物資不足の苦しい時代に郷土の発展を願う明るい希望と勇気を与えるものであったことがうかがえる。 『市制施行申請書』に記された当時の人口は31,295人、戸数6,379戸。

苫小牧港築港

林千秋の『勇払築港論』から起こった苫小牧の港湾建設運動が戦後再び関心が高まり、昭和24年に名誉会長田中正太郎・会長岩倉巻次の名を連ねて苫小牧港築設期成同盟会が結成された。苫小牧市と市議会は勇払原野の総合開発に関する陳情書を中央関係省庁に提出し、戦後初めて工業港築設を表面に打ち出した。その後田中市長が上京、陳情を繰り返し、そのほか西田信一道議が道に、篠田弘作衆議院議員が国に対して港の必要性を訴えた結果、わが国初の本格的な内陸掘り込み式人造港が誕生することになった。 昭和38年4月25日、第3北星丸、光輝丸が市民の歓声の中で入港した。上戸道開発局長と共にくす玉を割った田中市長、西田参議院議員や篠田自治大臣、岩倉期成会会長などの関係者は感激し目を潤ませていたという。田中市長はこの入船式を花道に5日後に引退した。
林千秋の『勇払築港論』から起こった苫小牧の港湾建設運動が戦後再び関心が高まり、昭和24年に名誉会長田中正太郎・会長岩倉巻次の名を連ねて苫小牧港築設期成同盟会が結成された。苫小牧市と市議会は勇払原野の総合開発に関する陳情書を中央関係省庁に提出し、戦後初めて工業港築設を表面に打ち出した。その後田中市長が上京、陳情を繰り返し、そのほか西田信一道議が道に、篠田弘作衆議院議員が国に対して港の必要性を訴えた結果、わが国初の本格的な内陸掘り込み式人造港が誕生することになった。 昭和38年4月25日、第3北星丸、光輝丸が市民の歓声の中で入港した。上戸道開発局長と共にくす玉を割った田中市長、西田参議院議員や篠田自治大臣、岩倉期成会会長などの関係者は感激し目を潤ませていたという。田中市長はこの入船式を花道に5日後に引退した。

<参考資料>

  • 「苫小牧市 上下巻」 苫小牧市/編 苫小牧市 1975
  • 「苫小牧のあゆみ」 苫小牧市史編集事務局/編集 苫小牧市 1998
  • 「苫小牧町史」 苫小牧町役場/編 苫小牧町役場 1940
  • 「故田中正太郎翁市葬執行記録」 苫小牧市/著 苫小牧市 1965
  • 「大悟小節に拘らず」 田中正太郎先生伝記刊行会 1978

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