苫小牧はじめて物語

川上澄生

(かわかみ すみお)

2017年9月30日公開

川上澄生

『我観』より

明治28年4月10日

横浜市に生まれる。本名は澄雄

大正3年

青山学院高等科在学中から「文章世
界」などに平峯劉吉の名でコマ絵や
詩を投稿

大正6年

父の勧めでカナダへ渡る

大正7年

シアトルへ渡り、アラスカの鮭缶詰工場で働く
弟・和四郎の死の知らせを受け、帰国

大正10年

栃木県立宇都宮中学校の英語教師となる
(現・宇都宮高等学校)

大正12年

宇都宮市郊外に二間の家を新築
朴花居ぼっかきょと名付ける

大正15年

第5回国画創作協会展に「初夏はつなつかぜ」を出品

昭和13年

北海道出身の小坂千代と結婚

昭和14年

長男 不盡誕生

昭和17年

長女 みふね誕生

昭和20年

北海道にある妻の実家へ疎開
次女 さやか誕生
苫小牧中学校の嘱託教師となる
(現・苫小牧東高等学校)

昭和24年

宇都宮へ戻る
栃木県立宇都宮女子高等学校の講師
となる

昭和33年

宇都宮女子高等学校を退職

昭和47年4月

妻・千代没

昭和47年9月1日

心筋梗塞のため急逝
享年77歳

● 主な表彰

  • 第1回栃木県文化功労者章
  • 勲四等端宝章

川上澄生と版画

川上澄生は、大正から昭和にかけて活躍した版画家であり、詩人である。「木版画の詩人」と呼ばれ、画と詩が織りなす豊かな詩情を持つ木版画家としてその唯一無二の世界を創りだした。 幼少期からの絵や木版に対する興味に加え、木口木版の技術を日本に持ち帰った合田清の長男・弘一と青山学院で同級だったことをきっかけとして、版画の世界へ興味・関心を高めていった。その後の母の死や失恋、北米放浪を経て、大正10年に英語教師となり、その頃から本格的に木版画を制作し始める。 国画展に出品した「初夏はつなつかぜ」は、棟方志功が感銘を受け、版画家を志したことでもよく知られている。昼は勤勉な英語教師、夜は木版画家として、澄生はその独特な作風を完成させていった。飽くなき創作意欲で生涯に渡って、版画作品以外にも、絵本、蔵書票、ガラス絵、千代紙、玩具など、多種多様でユニークな作品を制作し、それらは世代を越えて多くの人々に愛された。
川上澄生は、大正から昭和にかけて活躍した版画家であり、詩人である。「木版画の詩人」と呼ばれ、画と詩が織りなす豊かな詩情を持つ木版画家としてその唯一無二の世界を創りだした。 幼少期からの絵や木版に対する興味に加え、木口木版の技術を日本に持ち帰った合田清の長男・弘一と青山学院で同級だったことをきっかけとして、版画の世界へ興味・関心を高めていった。その後の母の死や失恋、北米放浪を経て、大正10年に英語教師となり、その頃から本格的に木版画を制作し始める。 国画展に出品した「初夏はつなつかぜ」は、棟方志功が感銘を受け、版画家を志したことでもよく知られている。昼は勤勉な英語教師、夜は木版画家として、澄生はその独特な作風を完成させていった。飽くなき創作意欲で生涯に渡って、版画作品以外にも、絵本、蔵書票、ガラス絵、千代紙、玩具など、多種多様でユニークな作品を制作し、それらは世代を越えて多くの人々に愛された。

川上澄生と北海道

昭和20年、妻の出産のため妻の実家がある追分に疎開する。次女さやかが生まれた後、白老に移り、かつての同僚・安達三夫の紹介で、苫小牧中学校の英語の嘱託教師の職に就く。そのため終戦直後から苫小牧に通い、白老と苫小牧が澄生の舞台となり、創作を続けた。 昭和23年には、王子製紙から依頼を受け、苫小牧市制を記念した「版画集 苫小牧」を限定30部で制作する。この5枚からなる画集では、油絵の具を使った色刷りを試みている。その他、澄生が苫小牧に残した業績は数多くある。例えば苫小牧美術協会への入会、機関誌『画室』への寄稿など、苫小牧の文化復興に大きな影響を与えた。さらに、浅野武彦(医師・版画家)への作品の指導、第一洋食店の山下正と親交を結んだことも注目すべき点である。 約3年9ヶ月の北海道生活の中で、北海道の風物、アイヌ風俗などをモチーフに詩や版画を次々と生み出し、川上澄生の存在と作品は、苫小牧のみならず北海道にとって、実に大きなものとなった。
昭和20年、妻の出産のため妻の実家がある追分に疎開する。次女さやかが生まれた後、白老に移り、かつての同僚・安達三夫の紹介で、苫小牧中学校の英語の嘱託教師の職に就く。そのため終戦直後から苫小牧に通い、白老と苫小牧が澄生の舞台となり、創作を続けた。 昭和23年には、王子製紙から依頼を受け、苫小牧市制を記念した「版画集 苫小牧」を限定30部で制作する。この5枚からなる画集では、油絵の具を使った色刷りを試みている。その他、澄生が苫小牧に残した業績は数多くある。例えば苫小牧美術協会への入会、機関誌『画室』への寄稿など、苫小牧の文化復興に大きな影響を与えた。さらに、浅野武彦(医師・版画家)への作品の指導、第一洋食店の山下正と親交を結んだことも注目すべき点である。 約3年9ヶ月の北海道生活の中で、北海道の風物、アイヌ風俗などをモチーフに詩や版画を次々と生み出し、川上澄生の存在と作品は、苫小牧のみならず北海道にとって、実に大きなものとなった。

鹿沼市立川上澄生美術館

平成4年、鹿沼市出身で川上澄生の教え子であり、熱心なコレクターでもあった長谷川勝三郎の約2,000点に及ぶ作品の寄贈により、川上澄生個人美術館が開館した。建物は明治の洋館風の外装で、「日本越後國柏崎黒船館」をもとに設計・建築されたという。温かみのある内装も含め、「木版画の詩人」川上澄生の作風を反映した造りとなっている。また工夫を凝らした展示、企画を通して、川上芸術を今に伝えるこの美術館の存在はかけがえのないものである。川上澄生は多くの人と出会い、支えられ、数多くの作品を生みだした。そしてその交流によって個人の名を冠した美術館が誕生することへとつながった。この美術館で、川上澄生の版画と詩の世界はこれからも人々を魅了していくことだろう。
平成4年、鹿沼市出身で川上澄生の教え子であり、熱心なコレクターでもあった長谷川勝三郎の約2,000点に及ぶ作品の寄贈により、川上澄生個人美術館が開館した。建物は明治の洋館風の外装で、「日本越後國柏崎黒船館」をもとに設計・建築されたという。温かみのある内装も含め、「木版画の詩人」川上澄生の作風を反映した造りとなっている。また工夫を凝らした展示、企画を通して、川上芸術を今に伝えるこの美術館の存在はかけがえのないものである。川上澄生は多くの人と出会い、支えられ、数多くの作品を生みだした。そしてその交流によって個人の名を冠した美術館が誕生することへとつながった。この美術館で、川上澄生の版画と詩の世界はこれからも人々を魅了していくことだろう。

<参考資料>

  • 「川上澄生全集」全14巻 川上 澄生/著 中央公論社 1979
  • 「川上澄生/詩と絵の世界」鹿沼市立川上澄生美術館/責任編集 毎日新聞社 1995
  • 「北海道の川上澄生」鹿沼市立川上澄生美術館/編 鹿沼市立川上澄生美術館 1993
  • 「川上澄生と北海道」平沢 秀和/著 北海道新聞社 2003
  • 「評伝川上澄生」小林 利延/著 下野新聞社 2004
  • 「苫小牧市民文芸 34」苫小牧市民文芸編集委員会/編 第44回苫小牧文化祭実行委員会 1992
  • 「研究報告 第9号」苫小牧市博物館 1999
  • 「父は明治のコックさん」山下 正/著 近代映画社 2007

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